isumu 学芸員さんに聞きました

なかなかお会いできない学芸員の方にお話を伺うブログです

Vol.14 大倉集古館 平塚泰三さん

東京都は港区虎ノ門。オークラ東京の目の前に位置し、現存する日本最古の私立美術館であるという大倉集古館。

2026年7月28日(火)から開催している企画展「祈りと救いの美 ――国宝 普賢菩薩騎象像との出会い」に際し、学芸部長の平塚泰三さんにお話しを伺いました。

(以下、平塚さんのお話)

明治から大正時代に活躍した実業家 大倉喜八郎(1837~1928)が、廃仏毀釈によって仏教美術の文化財が寺外に売り払われ、海外にも流出し散逸している当時の現状を憂い、私財を投じて買い集めたのが当館のコレクションの始まりです。

現在のオークラ東京を含めたこの一角というのはもともと大倉邸だったのですが、明治35(1902)年にここに喜八郎の収集品を公開する施設が造られました。

その後大正6(1917)年にこれを財団法人化、大倉集古館という美術館になりました。

これが現存する日本最古の私立美術館です。

 

旧展示室 *画像提供:大倉集古館

大きな木彫像などが所狭しと並んでいたのですが、残念ながら1923年の関東大震災では大きな被害を受け、1/2とも3/4ともいわれる所蔵品が焼失してしまいました。

その後1927年に、平安神宮や明治神宮、築地本願寺などを担当した建築家 伊東忠太(1867~1954)による設計のもと、現在の館ができました。

中国風の、孔子廟のような建物で、2階天井のレリーフや窓枠など、至るところに伊東忠太デザインのモチーフが当時のまま残っています。

照明の入った木製フレームの2つの展示ケースも、中身はすべてリフォームしていますが、フレームは100年前の伊東忠太デザインのものなんですよ。だからスタッフの間ではこれを「忠太ケース」と呼んでいます(笑)。

100年前から使用されている忠太ケース *画像提供:大倉集古館

当館所蔵の国宝は3点あって、ひとつは鎌倉時代13世紀の絵巻物「随身庭騎絵巻」。馬に乗った廷臣の姿を描いた似絵(にせえ:平安後期から鎌倉時代にかけて流行した大和絵の肖像画)の名品です。

それから「古今和歌集 序」があります。本巻は最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の平安時代の写本で、紀貫之が著した仮名序の本文を完存しています。

国宝 随身庭騎絵巻(部分) *画像提供:大倉集古館

 

国宝 古今和歌集 序(部分) *画像提供:大倉集古館

3つ目が当館の至宝の中の至宝、普賢菩薩騎象像です。

国宝 木造普賢菩薩騎象像 *画像提供:大倉集古館
東京23区内で所蔵される唯一の国宝仏像です。

平安時代12世紀の院政期といわれる頃の作品で、端麗で美しい姿、粋(すい)を凝らした上品な装飾が特徴です。

 

まずこのお顔がきれいですね。平安時代後期の木彫像の中でも特に気品があります。

これだけきれいにふっくらとした顔の像はなかなかありません。

象の下の台座まで、すべて当初のものである点は大変貴重です。

各所に残る彩色も造像時のもの。当時の彩色原理は「紺丹緑紫(こんたんりょくし)」と表現され、紺・赤・緑・紫が基本原色で、これをぼかしたりして色を作っていきます。

着衣の箇所には截金がよく残っていて、きらきらと光っています。

この展覧会では光を当てて彩色や截金をよく見えるようにしていますので、ぜひ単眼鏡などでじっくり見ていただきたいですね(単眼鏡は当館受付でもお貸出ししています!)。

像の後ろ側にも回り込めるようにしていますし、なんといっても今回はすべての作品を写真撮影可にしています。

 

造像の経緯や由来などはわかっていませんが、東京国立博物館初代館長となった町田久成から大倉喜八郎が譲り受けたと記録に残っています。

1900年のパリ万国博覧会にも大倉喜八郎の名前で出陳されていますので、1917年に大倉集古館ができる前に喜八郎のもとにあったと考えられます。

関東大震災の際には、職員が本像を持って避難させたという逸話が残っています。おかげで今日もここにこうしていらっしゃるのですね。

 

存在自体が周囲の空気を清らかにするような、静謐な感じというんでしょうか、そういう感覚を与えてくれるお像だと思います。

今回の展覧会「祈りと救いの美 ――国宝 普賢菩薩騎象像との出会い」は、当館のコレクションの核のひとつである仏教美術を6章に分けて展示し、仏教美術の流れを紹介しています。

仏教美術の展覧会は意外に少なく、本像も当館では4年ぶりの出陳です。

館外に貸出すことがほとんどない作品なので、ぜひ当館の至宝であり、23区内唯一の国宝仏像、普賢菩薩騎象像に会いに来てください。

よろしくお願い致します。

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2026年7月28日(火)~9月27日(日)

大倉集古館 企画展 「祈りと救いの美 ――国宝 普賢菩薩騎象像との出会い」

公式サイト

 

 

<プロフィール>

平塚泰三(ひらつかたいぞう)

大倉集古館学芸部長

慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2023年より現職。

Vol.13 総本山長谷寺 宗宝蔵 甲田弘明さん

奈良県桜井市にある長谷寺は、全国に約3,000カ寺もの末寺をもつ真言宗豊山派の総本山。

本堂にお祀りされる大きな十一面観音像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、霊験あらたかな仏様として知られ、長谷信仰が全国に広がりました。

長谷寺に伝わる寺宝や史料を収蔵し、毎年春と秋に一般公開もしている「宗宝蔵(しゅうほうぞう)」で、長年にわたり所蔵品の管理をされている学芸員の甲田弘明さんにお話を伺いました。

(以下、甲田さんのお話)

 

 

この宗宝蔵はもともと仏像をメインとしたお寺に伝わる宝物を展示する施設として、昭和48年に建設されました。

長谷寺では広い山内にたくさんのお堂があり、それぞれ仏像が安置されていました。

ところが建物も傷み、手が回らなかったりという状況になり仏様も傷んでしまうということで、保管しながら参拝の方に見ていただく施設が必要だということで建てられたわけです。

 

 

収蔵品の点数はざっと数十万点に及びます。

山内には土蔵も多数あり、昭和51年からきちんと保存し、目録を整備しようという動きが始まりました。それ以前はどこに何があるか全くわからなかったんですね。 

しかしながらこうした整備というのは人手とお金が非常にかかるため、一度頓挫してしまいました。

その後昭和61年に二回目の整備事業が立ち上がり、境内の土蔵の中に入っているものをこの宗宝蔵へとにかく全部移しました。

そうして収蔵されたものを一つ一つを記録して『豊山長谷寺拾遺』という本を編纂する、というのが私の仕事です。

私は昭和62年から、もう40年くらいこの仕事をしているのですが、やっと8冊できたところです。

長谷寺というのは江戸時代以降、「教学・学問のお寺(学山)」でした。

ですから経典とか僧侶が行事を行う次第とか、そういった史料がもう数えきれないくらいあるんです。

現時点ですでに一万を超えていて、整理に終わりが見えないんです。

いつ終わるのかと宗派の方にもよく聞かれるんですが、百年ぐらい見といたらどうでしょうかと。

簡単にやろうと思ったらできるんですよ。でも「しっかりと記録する価値を見つけていく」みたいなところもありますよね。

本堂の国宝指定の際にも、それまでに調べていたものを文化庁に提示してそれが附(つけたり)になりました。

 

*参考ページ 

VOL.6 真言宗豊山派総本山長谷寺本堂の国宝指定に思う | 真言宗豊山派

 

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銅造十一面観音菩薩立像<重文>

 

こちらのお像は「長谷寺式」として知られてるんですが、錫杖は持つものの磐石ではなく蓮華の上に立っています。

鎌倉時代のものですが、造像当初は長谷寺式ではなかったのだろうと思われますね。

錫杖も後補でもともとは普通の十一面観音像であっただろうと。

大正時代の調査をまとめた『国宝及貴重品台帳』には、元禄時代に江戸から奉納されたと書いてあります。東京のほうからやってきた十一面観音像に錫杖を付けて「長谷寺式」にしたんでしょうね。

光背が金属工芸としてとても優れています。

金銅仏としては高さ約80センチと非常に大きい部類ですね。中は空洞にはなっていますが、やはり持つとかなり重たいです。

もともとお厨子に入っていたものですが、現在この厨子は写経殿にあって他のお像が収められています。

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木造難陀龍王立像 <重文> 

 

こちらは本堂にある重文の難陀龍王像で、長谷観音の向かって右側に脇侍として立っています。左側には雨宝童子像が祀られるのですが、他には見られない独特な組み合わせの三尊ですね。

 

木造雨宝童子立像 <重文>

 

難陀龍王は長谷観音の磐石を守る存在で、その磐石のあるこの初瀬山を守るのが雨宝童子です。

この辺は大和平野へ流れる川の源流にあたりますから、やはり水に悩まされることも多いんです。こちらの二尊はともに水に関係する像で、水害をなんとかしたいという思いで造られたものかもしれませんね。

 

長谷寺本尊 十一面観音立像 <重文>

 

長谷観音が何度も焼失し、再建のたびに長谷聖(勧進聖)という僧が全国を行脚し、観音様の霊験を伝え布教しながらご縁を結んでいただけるよう募って回りました。

そうして日本中に長谷信仰が広まるわけですが、仏像としても本尊だけではなくこの三尊が祀られました。難陀龍王は春日明神、雨宝童子は天照大神として祀られるところも多いですね。

難陀龍王像には鎌倉の終わり、正和五(1316)年の制作と銘がありますので、その時に雨宝童子像も添えられたんだろうと考えています。

 

 

その後も本尊や本堂は2回ほど焼失したのですが、その際にこの像だけ運び出されてるんですね。像の背中の上に焼け焦げ跡が残っています。

ご参拝の時には見られませんが、実は裏にはそういう歴史が刻まれているんです。

 

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<プロフィール>

甲田弘明(こうだひろあき)

 長谷寺学芸員

佛教大学大学院文学研究科修了。1988年より現職。

Vol.12 半蔵門ミュージアム 山田美季さん

東京メトロ半蔵門線の出口を出てすぐ、半蔵門ミュージアムは2018年にできた比較的新しい美術館です。
2008年、鎌倉時代の大仏師 運慶の作と推定される大日如来像がニューヨークでオークションに掛けられ海外流出の危機にあったところ、都内の宗教法人「真如苑」がこれを落札。この貴重な大日如来像を中心とした仏教美術を一般に公開する目的で造られました。
こちらで研究員をされている山田美季さんにお話を伺いました。
(以下、山田研究員のお話)

 

 

当館にはガンダーラ仏や仏画など、仏教美術を中心におよそ200点ほどの所蔵品があります。
また彫刻史研究の先学が蓄積された膨大な研究資料を文庫として寄贈を受けており、私はその整理を基本業務として進めています。あわせて、所蔵品を活かした展示の企画や調査にも関わっています。

 

館の展示の中心となるのは、やはり重文指定を受けた大日如来坐像です。

 

 

館長の山本勉先生がこの像を初めてご覧になったのは、2003年7月、所蔵者から送られてきた写真だったそうです。以前に調査し、運慶作と発表していた栃木県足利市・光得寺の大日如来坐像(厨子入り・像高31.3cm)とよく似ていたため、強い驚きを覚えたといいます。

光得寺の大日如来坐像については、40年ほど前に山本先生が調査を行い、足利市鑁阿寺奥の院として機能していた樺崎寺(かばさきでら)の由来を伝える『鑁阿寺樺崎縁起幷仏事次第(ばんなじかばさきえんぎならびにぶつじしだい)』に記載される足利義兼発願の像であることを裏付け、運慶作の可能性を提示されていました。さらに同縁起には、義兼が発願した大日如来像がもう一軀あったことも記されています。樺崎寺の下御堂に「三尺皆金色」の金剛界大日如来坐像があり、厨子には建久四年(1193)の願文があった、という記述です。

光得寺像を運慶作と位置づけてから約15年後、その記述に該当しそうな像が写真というかたちで突如として目の前に現れました。こうした経緯もあり、山本先生はこの像もまた運慶作である可能性が高いと判断されました。

 

私は個人的に、智拳印を結んだ手と胸の間にできる空間が素晴らしいと思っています。
彫刻されている部分ではなくて、彫刻によって生まれる余地ですね。

 

 

運慶でなければこのように彫ることができないんじゃないかなと思うんです。
当館では像を側面からもご覧になれるので、ぜひこの美しさを見ていただきたいですね。

台座や光背、宝冠などの装飾品がすべて失われており、シンプルでそぎ落とされた状態になっていますが、それでも華やかさを失っていないところがすごいですね。
衣は布の質感、肉身部は弾力のある感じ、整った毛筋の細やかさといった彫り分けがさすがだなと思います。

円成寺大日如来像では衣文線が足の形と平行に彫られているのですが、光得寺と当館の像は下から立ち上がった縦の衣文線になっています。

 

 

こうした表現方法は、絵画としては一般的ながら、彫刻では採用例がほとんどありません。絵画の衣文線にならっただけでなく、衣の中の肉体を表現するためにも、運慶はこの縦の線を使ったんではないかと思います。

 

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私の個人的なおすすめは、こちらの如意輪観音菩薩坐像です。

 

 

京都・醍醐寺に伝来したものですが、ご縁があって当館へいらしていただき、修理を終えて2023年からお披露目しています。
正面から見るとスレンダーさがあるのですが、横から見るとかなりどっしりとした質感を持っていて、そのギャップが私は好きなんですね。

 

 

六本の腕の多くは後世の後補ですが、左第一手については造像当初のもので、肩から光明山まで一材から彫り出されています。
一般的には右足を立て両足裏を合わせる輪王坐であらわされることの多い如意輪観音像ですが、こちらのお像は左足を踏み下げ、しかもその上に右足を載せる半跏の姿勢になっているのが珍しいところです。

 

一般的な如意輪観音の作例(イスム 如意輪観音

髻(もとどり)の正面に小さな内刳りが施されていて、木製の舎利容器とその内部の舎利の存在が修理中に確認されました。
これも珍しいものですが、醍醐寺三宝弥勒堂本尊の快慶作弥勒菩薩坐像の髻にも同様の例があります。

 

髻正面内刳り内部に収められた木製の舎利容器(撮影:株式会社明古堂

 

木製舎利容器を開いた状態(撮影:株式会社明古堂

江戸時代初期の寛文9年(1669)に修理され、醍醐寺三宝院持仏堂に安置されたことが像底の朱書銘から知られますが、それ以前の伝来はわかりません。しかし大きさや風格から見て醍醐寺にとって非常に貴重なお像であったことが伺えます。

後世の修復でお顔に木屎漆が盛られていたのですが、こういった場合、もともとのお顔が朽ちてなくなってしまい、それを造形しなおすために木屎漆を用いることが多いんです。
ところが当館での修理の際に、CT調査でその下の造形がきちんと残されていることがわかり、当初のお顔を拝むことができるようになりました。

 

修理途中における面貌の状態(向かって右:修理後、向かって左:修理前)

(協力:株式会社明古堂

 

このお像の制作年代については、研究者の中でも意見が割れています。
ただ、本来のお顔が分かったことによってまた研究が進むのではないかと期待しています。


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2026年1月からは、新年で皆さん注目されるものでもある富士山をテーマに、特集展示「富士山 花と雲と湖と」を開催します。
片岡球子さんの、とても美しい『花に囲まれし富士』を初めて展示します。

 

 

私が今整理を進めている先学の文庫は、師弟関係にあるお二人の彫刻史研究者が生涯をかけて蓄積してきた資料です。資料の保存はもちろんですが、彫刻史を学ぶ人たちに広く活用してもらい、研究の土台として次世代へ引き継いでいくことを目指しています。

 

こうしたアーカイブズ資料を広く公開することも美術館の役割の一つだと考えておりますので、整理を進めながら、関連する企画についても今後検討していきたいと思っています。

 

<プロフィール>

山田美季(やまだみき)


半蔵門ミュージアム客員研究員/成城大学 文学研究科 日本学術振興会特別研究員。

東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻修了、博士(美術)。2023年4月より現職。

 

Vol.11 上原美術館 田島整さん

1983年に大正製薬の名誉会長(当時)上原正吉・小枝(さえ)夫妻によって設立された上原仏教美術館が、後に息子・上原昭二氏が建てた上原近代美術館と合併し、2017年に上原美術館が誕生しました。

小枝氏の故郷の地に建つ当館は、伊豆の山々に抱かれた風光明媚な景観を誇ります。

上席学芸員の田島先生にお話を伺いました。

(以下、田島先生のお話)

 

 

大学を卒業してから10年ほど教員をやっていたんです。

そこへ恩師がそろそろ研究職へ戻らないかと誘ってくれて、そうして上原美術館にやってきました。「伊豆に骨を埋めなさい」と言われて(笑)。

 

2022年で伊豆に来て20年になったのですが、それまでに一つ自分なりに答えを出そうと思っていたことがありました。

それが南禅寺(なぜんじ)のお像たち。

 

薬師如来像(平安時代・9世紀後半~10世紀前半)

 

26体の平安仏が本堂の中に詰まった状態であったんです。

以前から平安前期に遡る貴重なものだということは分かっていたんですが、誰が何のために造ったものなのかが分からず評価が遅れていました。

そこで、多くの研究者と南禅寺を調査するとともに、全国の薬師如来を主尊とする群像を伝えるお堂や寺を訪ねて調査しました。

その結果、南禅寺の仏像は素朴な作風の地方作ではなく、中央の仏師による本格的な仏像であること、さらに本来は現在の倍以上、50体以上からなる群像であったらしいことが分かりました。

 

左から十一面観音像(奈良時代)/男神像(平安時代)/吉祥天像(平安時代

 

そうなると今度は、中央政府が伊豆の南端に50体もの仏像を造るというのは理由が分からない。

そこで視点を変えてみました。

もしこれらの群像を中央政府が作ったとすれば、中央の文献に何らかの痕跡があるはずだと考えたんです。

 

仏像の年代が9世紀終わりから10世紀であることが分かったので、その頃の伊豆が中央の歴史にどのように出てくるかを調べました。

もともと中央の記録には、地方のことはほとんど記されていない。伊豆も同じで、その前後の時期にはほとんど記述がないのに、この時期に限ってはやたらと伊豆が出てくる。

 

それは伊豆諸島が噴火していたという記録なのです。その噴火の音が都まで響いていて、貴族たちが恐れをなしていた。

噴火は、938年の神津島噴火で、その噴火の音が当方から鼓を打つような怪音として都に響いていたのですが、当初、都の貴族たちは、これが何の音なのか分からなかったんです。

2年後に伊豆の国司が交代する際の、(国司交代の)勤務報告書を提出されたのを見て、はじめてこの音が噴火の音だと知った。そこで、当時の貴族たちは伊豆の神の仕業だと思ったのです。

 

左から地蔵菩薩像(平安時代)/天王像(平安時代

 

その後公式な記録の編纂は途絶えますが、伊豆諸島の噴火自体は、一世紀くらい続いたと考えられています。

そこで政府は、伊豆の神々に位を授けてなだめようとした、そういう記録が9世紀の中頃から10世紀にかけての伊豆に関する記述なんです。

そこに仏像は出てこないけれど、それでも噴火が収まらなければ、当時の政府は当然仏教の力を借りますよね。

 

 

南禅寺の仏像群の半数はちょうどその頃に造られているので、中央政府が伊豆の噴火に対して作ったものではないかという論文を書いたんです。

状況証拠でしかないのですが、この説を多くの研究者が私の説を引用して紹介してくれて、有力な説なのではと認める人が増えてきた。

そういったことが関係しているのかもしれませんが、この26体の像は今年の3月15日に国の重文指定を受けました。

伊豆は天城連峰をを境に大きく南北に分けられるのですが、天城より南の伊豆南部では、仏像の国文化財指定は、大正9年蓮台寺の天神神社(下田市)の大日如来が重文になって以来、1世紀ぶりのことなんですね

「ヤッター!」という感じでとても嬉しいことです。

 

上原美術館での展示「重要文化財のかけら」

 

ここにある仏像の残欠は、南禅寺の本堂の片隅に山積みになっていたものです。

今回の指定で、せめて重文指定の附(つけたり)にできないかと考えていたものですが、さまざまな事情で実現しなかったもの。

だから重文になり損ねてしまったんですが、それと同じ価値があるということで、「重要文化財のかけら」と称して、今後も展示していきたいと思います。

 

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ところで、今の私は、伊豆の仏像の調査ががひと段落したところなので、これから伊豆の付け根、「静岡県」に出ていこうと思っています。

伊豆の調査も続けるんだけれど、ちょっと他のところまで対象を広げてみて、伊豆と比較してみようと。

ちょうど今年静岡県文化財保護審議委員になったので、これを機に視野を少し広げてみたいなと思います。

静岡県の西側には優秀な学芸員がいて調査してくれているので(浜松市美術館 島口直弥さん)、2人で国盗り合戦しているような状況です(笑)。

研究者が中央にまとまり過ぎちゃっているので、地方の研究が進んでいない現状がある。

各県に少なくとも一人でもしっかりとした研究者がいてくれれば、今とはもっと違う仏像の景色が見えるはずです。

まだまだ各地に魅力的な仏像がたくさんありますよ。

 

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2024年10月5日(土)~2025年1月13日(月・休)

上原美術館 特別展 仏像でみる伊豆の平安時代

 

 

大河ドラマに描かれる平安時代

この時代、都では文学が花開き、貴族の日記も残されていて当時の様子がよくわかるのですが、地方に関してはほとんど文字の記録がなく、平安時代の地方の様子や人びとの生活はまったく伝えられていません。
伊豆も同じですが、平安時代の仏像はたくさん残っている。そこで、仏像を通じて伊豆の平安時代を解き明かします。
絶対秘仏として開帳されたことのない太梅寺(たいばいじ/下田市)の地蔵菩薩像をはじめ、10体の秘仏や、通常非公開の貴重な伊豆の平安仏の数々を展示。

南禅寺の重文になれなかった仏像の断片も展示します 。

 

<プロフィール>

田島整(たじませい)

上原美術館上席学芸員静岡県文化財保護審議会委員。大正大学仏教学部仏教学科卒業。2002年より現職。

SBSラジオ Radio East内「なむなむ仏像講座」に、仏像好きアナウンサー・久保沙里菜さんと共に出演。https://www.at-s.com/sbsradio/namunamu/

 

Vol.10 浜松市美術館 島口直弥さん

1971年、浜松市の市政60周年を記念し、浜松城のすぐ近くに建てられた浜松市美術館。市民に身近な美術館として50年以上の長きにわたり愛されています。

こちらで学芸員をされる島口さんにお話を伺いました。

(以下、島口さんのお話)

 

 

内田六郎さんという当地のお医者さんが美術品のコレクターで、浮世絵や大津絵、ガラス絵などのコレクションを寄贈していただいたのが当館の始まりです。

この「内田コレクション」と、中国の金銅仏や石仏といった仏教芸術に関するラインナップの「小杉コレクション」、この2つが当館の核となる収蔵品です。

 

所蔵品 「草と赤土の道」岸田劉生

 

これらに加え、最近は当地にゆかりのある作品も蒐集しています。

例えば「麗子像」で知られる岸田劉生は、浜松に山本貞次郎というパトロン・コレクターが在住していました。

今、東京国立博物館にある有名な「麗子微笑」(重要文化財)も、以前は浜松にあったものなんです。ですから≪草と赤土の道≫という草土社(岸田を中心に創設された洋画団体)に関連する作品も所蔵しています。

 

2021年企画展「みほとけのキセキー遠州三河の寺宝展ー」

 

当館は開館から今年で52年目を迎えます。

2年前の2021年には、開館50周年記念として地域の仏像を集めた「みほとけのキセキー遠州三河の寺宝展ー」という企画展を開催しました。

ここでは、琵琶湖と同じように、浜名湖周辺の水辺や街道沿いに平安・鎌倉仏が多く残っていることを示す展示をしました。

その後、調べていくうちにこのテーマがより明確になったので、これを主題として、この10月から「みほとけのキセキⅡ ―遠州・三河のしられざる祈り―」を開催することになりました。

天竜川河口西岸に頭陀寺(ずだじ)というお寺があるのですが、これが遠江国唯一の定額寺(じょうがくじ/国分寺に順ずる寺院)でした。

東岸の磐田市には、言わずと知れた遠江国分寺跡があります。

この天竜下流域の東西に古い仏像が伝わることから、この地域も仏教文化が栄えた地域だったと言えるでしょう。

前回展は、浜名湖周辺の仏教文化圏を主軸としていたんですが、今回は天竜川を含め、その他の水辺にもスポットを当てています。

生活をしていくうえで水は欠かせない存在で、神聖なイメージもあります。

そこに人が集まり、寺院が建てられ、仏像も造られていたんですね。

 

定光寺 千手観音立像 磐田市指定文化財

 

この展覧会でまずお勧めしたいのはこちらの千手観音立像です。

12世紀の仏像で、作りが非常に都的、スタイリッシュ。

円満で穏やかな顔や浅くて流麗な衣の彫りで、造形的に誇張せず、必要最低限で表現をしています。

都の仏師が造った、または携わったと見ています。

定光寺蔵となっていますが、隣の旧蓮華寺観音堂で、地域の人々も含め大切に守られています。

この辺りには平安時代に池田荘という荘園がありました。荘園領主の藤原俊盛は天皇家と親戚関係にあり、都との関係が深かったと思われます。

だからこそ、この地域に都らしいこの像が残されているのではないかと考えています。

この像は一室にドンと大きく展示をして360度見られるようにしますので、通常なかなか見られない背面や側面をじっくりと見ていただきたいですね。

 

<島口さんから お像の搬入時の貴重な画像をお借りしました>

厨子から姿を見せる千手観音立像

 

搬出前のコンディションチェック

 

業者による梱包を終えた千手観音立像

 

女神坐像 府八幡宮

 

もう1つ、この女神坐像もイチオシです。

像高48.3センチと大きなものではないのですが、一木造りで体の中央に木の節がそのまま出ています。

神木、霊木を用いて、その木から現れたように造られているんですね。

過去に公開したことは一度もない貴重な像です。

 

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前回展は興業的にも成功して、多くの来館者にも喜んでいただけたのですが、特に文化財をお貸しいただいたお寺の方に本当に喜んでいただけたのが嬉しかったです。

「これはもう2回目をやるしかない」と思い、今回の開催に至りました。

今回の展示で、遠州地域の仏教文化圏について丹念に追って理解していただくのも嬉しいですし、何も考えずに展示室に入り、仏像一体一体と対峙して、その造形のよさや美しさをじっくり味わっていただくのも一興です。

「よい仏像を集めている」という自負がありますので、展示された像と向き合って、じっくり対話していただきたいです。

 

学芸員をしていて、自分が興味・関心の高い分野・事象を調査し、その現物に触れられること、その研究成果を展覧会という形で皆さんに楽しんでもらえるという一連の過程に、楽しさとやりがいを感じています。

今回の展覧会もその1つです。

この「みほとけのキセキⅡ」に向けた調査研究をする中でも新しい発見がたくさんありました。

今後「Ⅲ」 「Ⅳ」…と企画を続けていけたらいいなと思っています。

 

企画展「みほとけのキセキⅡ展 ー遠州三河のしられざる祈りー

期間:2023年10月14日(土)~12月3日(日)

 

<プロフィール>

島口直弥 (しまぐちなおや)

静岡大学卒業(2008年) 浜松市美術館学芸員浜松市教育委員会指導主事、静岡大学情報学部非常勤講師、袋井市文化財保護審議会委員(2023年現在)

企画した主な展覧会は「仲山計介展-エオンタ 存在するモノ達-(2020年)」、「みほとけのキセキ-遠州三河の寺宝展-(2021年)」、「ハイジ展-あの子の足音がきこえる-(2022年)」、「みほとけのキセキⅡ-遠州三河のしられざる祈り-(2023年)」(すべて浜松市美術館単独オリジナル企画)。その他、巡回展多数担当。

Vol.9 総本山善通寺 宝物館 松原潔さん

弘法大師 空海の誕生地として知られる香川県善通寺市にある真言宗善通寺派総本山 善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山と並ぶ弘法大師三大霊跡の一つ。

創建以来、弘法大師信仰の聖地として参拝者を集める、西日本を代表する古刹です。

広大な敷地内の西院に位置する宝物館で、国宝を含む約2万点もの貴重な文化財を管理する学芸員の松原潔さんにお話しを伺いました。

(以下松原さんのお話)

 

善通寺の宝物館の創設は1907(明治40)年。

お寺の宝物館としては早い例だと思います。

現在の建物は1973(昭和48)年の開館で、当館向かって左手にある蔵造りの建物が初代の宝物庫となります。

こちらは一般公開していませんが建物としては立派なもので、天井の細工など明治のままの姿が残っているんですよ。

 

善通寺の創建は平安時代はじめの807(大同2)年で、この地で生誕された弘法大師空海が建てたと伝わります。けれど実は当山ではもっと古いものがたくさん見つかっていて、どうやら空海を輩出した佐伯氏の氏寺があったようなんです。

弘法大師が生まれた頃の当地の文化水準を明らかにすることで、弘法大師が「確かにここにいた」ことを間接的にでも伝えられるのではと思っています。

その使命の上で一番重要だと思われるものが、この「如来像頭部」です。

 

粘土で作られた仏様というのは、白鳳時代から天平時代にかけてさかんに制作されました。

うねった目やへの字に結んだ口元、豊かな頬の肉どりなど威厳のあるお顔立ちで、東大寺法華堂の不空羂索観音など天平時代の仏様と共通する要素が多いのではないかと思うのです。

1558年、善通寺は大きな兵火でほぼ全焼し(三好実休の兵火)、創建期のご本尊はこの頭部のみが残されました。

江戸時代はじめ、復興の寄進を募るため江戸で出開帳を行った際の記録『霊仏宝物目録』の筆頭にこの像が「土佛薬師如来」と記載されています。

おそらく弘法大師に最もゆかりの深い創建期の像ということで、当時は一番重要な宝物と考えられていたようです。

 

1/3サイズの全身復元像

損傷の激しいこのお像が実際にはどんな姿だったのか、1/3サイズで全身の復元を試みたものがこちらです。

興福寺の阿修羅の復元など、捻塑像の技法に詳しい愛知県立芸術大学名誉教授の山﨑隆之先生に監修・制作していただきました。

体の部分は残念ながら残っていないので、頭部のサイズを勘案し蟹満寺の釈迦如来坐像の服制(衣服に関する制度・規則)などを参考に作られました。

古い薬師如来は薬壺を持たない作例が多く、こちらも薬壺を持たない薬師如来としています。

中に木芯と藁縄を入れ粘土を貼り付けていくという、当時の捻塑像*の技法で作ってもらいました。

*捻塑像…塑像・脱乾漆造・木芯乾漆造など、素材を盛り上げて造る像のこと

鎌倉時代の記録に薬師三尊と書かれているものもあり、その脇侍に当たる可能性もあります。

でも髪際(はっさい)が連弧状になっていたり、髪の毛筋(けすじ)彫りがなかったりと、古い時代の菩薩像の特徴が見られないため如来像だったと考えられます。

三尊像の菩薩だと如来の両脇にあるので、顔が右向きか左向き、どちらかに向くことが多いのですが、山﨑先生の試作によるとやはり脇侍ではなく、中尊であった可能性が高いということです。

 

こちらは善通寺で最も重要な寺宝、金銅錫杖頭です。

当山が所蔵する国宝2点のうちの一つで、弘法大師空海が唐に渡った際、師匠の恵果(けいか)阿闍梨から授かったという伝承があります。

錫杖というと簡素なものがほとんどですが、こちらは表裏5体ずつ計10体の仏様が表される豪華な造りです。

 

すべて鋳造で、光背も表裏別造です。

仏像は数センチと小さいので裏表一鋳で造ってしまえば簡単でしょうが、わざわざ別々に造られ光背は透かしになっているんです。

表面は定印を結ぶ阿弥陀如来坐像、裏面は判然とはしませんが来迎印の阿弥陀如来立像のようです。

中国では来迎印の類例は未だ確認されておらず、中国における現存唯一の作例の可能性があります。 

こちらは重文指定の地蔵菩薩像です。

定朝様式の典型ともいえる非常に優しいお顔をされています。

側面から見ると奥行が浅く、猫背になっているところも定朝様式の特徴ですね。

 

仏像の楽しみ方のひとつとして、立体の面白さがあります。

正面から見ると量感があるように見えても、横にまわると意外とペッタンコだったり。

おそらく正面から側面にかけての面のとり方が急激でなくゆったりと曲げていくという彫り方をすると、そういう量感が出るのかなと。

水野敬三郎先生のご著書で読んだのですが、仏像には「虚」の体型と「実」の体型というものがあるそうです。

定朝様式の仏像は「虚」の体型にあたるのですが、この姿勢は仏と観想するときの呼吸法とも関係していて、息を吐いた時の状態をあらわしているといいます。

この姿勢にはちゃんと意味があるんですよね。

やわらかい印象も含めすべてが連動していて、そういったものが優れた仏像の特徴のひとつかもしれないですね。

 

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宝物館の所蔵品に関してはある程度環境が保たれていますが、実際にお寺で使われている仏様や仏具など、いずれ文化財となるものは保存と活用の兼ね合いが難しいところです。

礼拝(活用)することを基本にしていますが、どのタイミングで使用を中止し宝物館へ移すのか、本当に難しいです。

文化財の保存状態を常にチェックし、可能な限り活用する手伝いというのも、寺院の宝物館としては重要な仕事なんです。

 

牡丹図屏風という古い屏風があって、式典などで実際に使っていたんです。

痛みが激しいので修理の相談があったのですが、桃山時代から江戸時代初頭のものだとわかり、すぐ宝物館へ移しました。

そういうものがまだまだ出てくる可能性があるんですよね、文化財級のものが(笑)。

こうした新しい発見をしたときは楽しいですね。

把握に努めていますが、修理するとなるとやはり簡単じゃないんです。

修理の必要なものが200~300点は所蔵庫に眠っています。

 

<プロフィール>

松原 潔 (まつばらきよし)

善通寺宝物館学芸員京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。

2007年から現職

Vol.8 神奈川県立歴史博物館 神野祐太さん

神奈川県立歴史博物館は、1904年に建てられた旧横浜正金銀行本店本館の建物をそのまま生かした外観が美しく、建築そのものが国の重要文化財に指定されています。

こちらの学芸員である神野さんにお話を伺いました。

(以下、神野さんのお話)

 

明治期の建築をそのまま利用した美しい博物館

 

当館は「かながわの文化と歴史」をテーマとする人文系の総合博物館で、1967年に神奈川県立博物館として開館、1995年に再編されて現在の名称になりました。

神奈川県立博物館時代は自然史系の展示もしていたのですが、再編にあたり小田原の入生田に生命の星・地球博物館という新しい博物館を建てて自然史系の資料や学芸員はそちらに移動しています。

原始・古代から現代・民俗まで5つの展示カテゴリーがありますが、私の担当は中世です。

中世には鎌倉幕府が開かれたので政治・経済・文化の中心地でした。

鎌倉時代はかながわの歴史上、文化史上とても重要な時代です。

 

館内には円覚寺舎利殿の原寸大模型がある。実物の舎利殿には入ることができないので、建物内の様子を体感できる貴重な展示。

 

当館の所蔵する仏像は40点ほどです。

そのうちの半分以上が複製なのですが、複製資料って意外と大事なんです。

国の重要文化財に指定されるような古代、中世の代表的な仏像はこの世に一つしかない場合がほとんどで、博物館の常設展示としてずっと展示することは物理的にも信仰上の理由からも難しいんです。

また、常時展示することは資料保存の観点からできません。

実物は持って来られないけれども、博物館は社会教育施設として「かながわの文化と歴史」がわかる展示をしなきゃいけない。

そこでどうするかというと、仏像の複製資料を展示するのが一つの方法なんです。

当館は開館以来、複製の仏像を展示してきました。時には「複製博物館」などと揶揄されたこともありますが、50年以上にわたって展示し続けることができるのは、複製資料ならではです。

仏像は立体ですから、写真ではその存在感を知ってもらうには物足りないのです。

展示される複製の仏像をみて、来館者が実物への興味を掻き立てられ、実際にみにいくきっかけにもなりますよね。

 

樹脂で実物そっくりに造られた薬師三尊像(原品:伊勢原市・宝城坊)

 

逆に言うと、いま博物館に所蔵されている仏像は、信仰の対象という意義を失ってしまったものなんです。

廃仏毀釈などで寺外に出たものを古道具屋さんから買うことでしか所蔵を増やせないのですが、それは作品の伝来がそこでいったん途切れ、歴史的・資料的価値が毀損してしまうことになるので残念なところですね。

 

当館では、実物の仏像も3~5体常設展示しています。

いずれも50cm以下ぐらいのあまり大きくない仏像です。

 

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阿弥陀如来坐像 鎌倉時代 神奈川県立歴史博物館

 

私がお勧めする仏像はこちら、平安から鎌倉へと時代が変わる頃に造られた阿弥陀如来様です。

個人的に好きなお顔で、顔のパーツがキュッと中央に寄って、頬やあごにたっぷりと肉付けされます。

横須賀・浄楽寺の文治5(1189)年に運慶が造った阿弥陀如来像と形がよく似ています。

当館の阿弥陀如来像のサイズが小さいものの像底を数センチ上げ底状に刳りあげるいわゆる「上げ底式内刳り」になっています。

この技法で製作年代が分かるのは浄楽寺像が一番古いので、こちらも運慶に近い仏師が造ったのではないかと思います。

銘記や像内納入品があれば歴史上にきちんと位置づけることができるんですけど、解体修理をした際には文字史料は見つからず、伝来の過程が追えないのでもともとの安置場所がわかりません。

文字史料のないなかで形と構造で製作年代を判断するしかないですが、それが美術史の醍醐味でもありますね。

 

 

観音菩薩立像 鎌倉時代 神奈川県立歴史博物館

 

もう一つのお勧めは銅像観音菩薩立像。

頭に八角形の大きな冠をかぶり、胸の前で左右の手を上下に合わせる特徴的な形をしています。このような姿の観音像は、長野善光寺の絶対秘仏である阿弥陀三尊像を模した仏像と考えられ、いわゆる善光寺阿弥陀三尊像の左脇侍として造られたと考えることができます。中尊である阿弥陀如来像やもう一方の脇侍である勢至菩薩像と3体セットで造られたとみられます。

実はこの観音像は最近伝来がわかってきて。

同じ形の勢至菩薩像が根津美術館にあるのは知られていたのですが、本当に一具のものか確かめる機会が意外となかったんです。

それが昨年、根津美術館さんが「阿弥陀如来 浄土への憧れ」という展示の事前調査に来られた際、形や構造もほぼ同じで、一緒に作られたものだと判明したんです。

当館の観音像の裏には江戸時代の銘文があり、根津美術館の勢至像の裏にも何個か文字があるのがわかって、筆跡的に似ているので、近世までは一緒にあったのだろうと見られます。

そうして根津美術館さんの展示では、三尊像の一具の両脇侍としてこの2体が並びました。

 

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学芸員の面白いところは、やはり特別展や展示ができることですね。

調査研究はもちろん楽しいんですけれども。

一般の方にも知ってもらいたい、見てもらいたいと思った仏像を展示という形で発信できるのは学芸員じゃないと出来ません。

 

それに当館の特別展は学芸員が自分がやりたい展覧会を発案し、出品資料の選定から図録の作成、資料の集荷・返却、展示プランまで担当する学芸員が決めることができます。

2~3年かけて特別展を形作っていくのはとても大変ですが、その達成感や充実感は他では味わうことができないと思います。だからこそ学芸員はやめられないですね。

 

神野さんがはじめて担当した特別展「相模川流域のみほとけ」のフライヤー

 

もともと早稲田の大学院で仏像の研究をしていましたが、ひょんなことから山本勉先生をご紹介いただき、清泉女子大学大学院に5年間研究生として通いました。

山本先生には、文章の書き方からはじまり、彫刻の調査方法や研究の進め方、学芸員、研究者としての心構えまで、懇切丁寧に教えていただきました。

その後、法政大学が主体となっていたヨーロッパの博物館美術館に所蔵される仏教美術調査プロジェクトへの参加を経て、地元愛媛の久万高原町立久万美術館の学芸員になりました。

 

そこでは学芸員が自分一人だったので、なんでもやっていました。

館に出勤したらまずトイレ掃除から始め、草刈りもやって、受付や監視もやっていましたね。

それがあったからこそ、博物館や美術館の全体の流れを把握できるようになりました。

 

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今年(2023年)の10月からは、足柄地方の仏像を扱った特別展「足柄の仏像」を開催します。

 

特別展 足柄の仏像

期間:2023年10月7日(土)~11月26日(日)

足柄坂や箱根山、酒匂川流域に伝わる平安から鎌倉時代の彫像など約80件(寺外初公開を含む)を中心に紹介。

 

男神坐像 平安時代 重要文化財 箱根神社

見どころの一つは、発見後ほどなく国の重要文化財に指定された男女の神像です。

重文指定後、東京国立博物館で実施された新指定の展覧会に一度出陳されました。

箱根神社宝物館では5年に一度公開されていますが、山を下り博物館施設で公開されるのは初めての機会となります。

箱根神社には有名な萬巻上人坐像がありますが、こちらも17年ぶりに当館で公開します。

 

阿弥陀如来立像 鎌倉時代 神奈川県指定文化財 本誓寺

もう一つは小田原の本誓寺の「歯吹(はふき)」阿弥陀如来像です。

平成のはじめ頃に修理を実施し、表面のよごれを除去したところ当初の截金がよく残っている貴重な像であることがわかったんです。

なぜ歯をあらわすのかは諸説ありますが、阿弥陀如来が説法を唱える様子を表現していると考えられています。

手の先が銅で出来ていることもとても珍しいです。

なぜ銅製なのか諸説あるんですが、人肌に温めて臨終の人に触れさせるようなことがあったのではないかと言われます。

足の裏には仏足文が描かれ、一般的な立像にある足ほぞがありません。

今回の特別展では普段は一般公開されていない貴重な仏像が一堂に会します。

通常は非公開の仏像や神像が大半を占めており、今後同様な規模で特別展ができるかわかりません。

仏像がお好きな方はぜひこの機会に見に来ていただければと思っています。

 

 

<プロフィール>

神野祐太 (じんのゆうた)

神奈川県立歴史博物館学芸員

1985年生まれ 早稲田大学大学院文学研究科美術史学コース修士課程修了。

2015年より現職。神奈川県の他、広島、愛媛、高知などでもフィールドワークを展開する。